防災士インタビュー
金田千恵子さん
お仕事の内容をお聞かせください
防災用品を販売しております。2011年12月に『上杉屋 楽天市場店』をオープンいたしました。私は新商品の品定めや管理を任されております。避難所では所持品などの管理は自己責任となりますし、トラブル防止にもなると思い、貴重品などは常に手元に置けるよう大容量のウエストポーチを製作しました。反射テープをつけましたので停電時の夜道も自分の存在を伝えることができます。ショルダーにもウエストバックにもなりますのでお子様からご年配の方まで使用できます。このような商品開発にも携わっております。
ご自身で被災された経験がありましたら、お聞かせください
私は、岩手県の沿岸南部で生まれ育ち、1978年の宮城県沖地震を経験し、昨年2011年3月の東日本大震災を仙台市で経験しました。
私の生まれ育った町は、チリ地震津波の時も大変な被害を受け、祖父母や両親からその時の悲惨な状況を聞かされて育ちました。町のいたるところにチリ地震津波時の浸水域の看板が建てられており、毎年、高台へ避難する防災訓練がありましたが、まさか、こんな大津波が私の育った町を襲うとは、まったく想像もしておりませんでした。中学の頃に発生した宮城県沖地震では部活中の出来事で体育館の天井は剥がれおち、友人としゃがみこんで揺れが収まるのを待ちました。集団下校となり家に着くと家財が散乱し足の踏み場もない状況でしたが、建物にはほとんど被害がありませんでした。「この辺の家は柱や梁がしっかりしているから大丈夫だった」 と母が言っていたのを覚えています。
そして、昨年の東日本大震災では、海沿いの町は大津波により沢山の方々が犠牲になり、築きあげた財産もすべて失ってしまう耐えがたい状況になってしまいました。おなじ地に生きるものとして何が無くて不便だなどと不満を言う人はおりませんでした。皆が自分の事は自分で完結するしかないと思っていたのだと思います。そんな状況だったからこそ備えることの大切さや語り継ぐ事の意味を知りました。仙台市内でも比較的被害の少ない場所にいた私でもライフラインは数日間途絶え、中でもガスは1カ月以上も使用できませんでした。ガソリンも手に入らず、歩いていける範囲でどこそこの銭湯がやっていると聞けば行くのですが 長蛇の列で入れそうもなく、またお水で良ければシャンプー出来ますと言う美容院の前も長い列。さがし歩いているとき犬の散歩でたまに合う方に「うちのお風呂はプロパンだから来たらいい」と声をかけて頂き電話番号の交換もしましたが、ご迷惑をお掛けする事になると躊躇していたところに、「今日にでもいらしてください」と連絡を頂きました。本当にありがたいお誘いに感謝の気持ちでいっぱいになり人の温かさをしりました。全国から来ていただいたガス会社の方々の寝ずの復旧作業により蛇口から温かいお湯が出た時には、本当にありがとうと心から感謝しました。あの時、数えきれないほどの助け合いがあったのです。ただ、私は何か出来たのか?と聞かれれば、何もしていない。何もできなかったと、情けない気持ちになりました。
なぜ防災士の資格を取得されましたか
災害時に率先して行動ができるよう、確かな知識をもち自信につなげたいという思いもありましたが、防災用品を販売しているものとして地震や津波だけではなく、水害、火山噴火、土砂崩れ等、知っておくべきことが無数にある事に気づき、自信を持ってお客様に商品をお勧めできる自分になりたいと思い防災士を目指しました。
今後の抱負についてお聞かせください
資格取得が最終目的ではないので、今後はいつ起こるかわからない災害に対して備えることの重要性や被害を最小限に抑えるための対策など、会社のホームページや地域の防災会などで伝えていきたいと考えております。そして、いつでも力になれるように万全の態勢を整えておこうと思っております。
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