防災士インタビュー

今川 悟さん

お仕事の内容をお聞かせください

 宮城県気仙沼市の地元紙「三陸新報」の記者をしています。現場記者は10人だけですが、2万5000世帯が暮らす小さな都市で、2万部が購読されています。入社は平成11年で、記者歴は14年目。教育、スポーツ、警察、経済、南三陸町、魚市場などの担当を経て、今は市政担当で復興の取り組みを主に取材しています。東日本大震災で気仙沼市の沿岸部は壊滅的な被害を受けており、住居の高台移転、産業再生など、難題が山積しており、地元紙の役割は非常に大きくなっています。市内では約1300人が津波の犠牲になっており、震災の検証、新たな津波対策なども重要なテーマです。

なぜ防災士の資格を取得しようと思われましたか

 記者になってすぐのころ、政府が「今後30年以内に宮城県沖地震が99%の確率で発生する」と発表しました。実は平成7年の阪神・淡路大震災のとき、私は大阪府池田市に住んでおり、災害の恐ろしさを痛感していたので、「これは大変だ」と思いました。それから、勝手に「防災担当」ということにし、過去の災害を調べたり、被害想定を紹介したりする記事や連載に力を入れてきました。そして「今後30年以内…」から気付けば10年以上過ぎ、もう一度連載を始めて防災意識のてこ入れしようと考えていた矢先に、東日本大震災が発生しました。
 その日、私は気仙沼魚市場の屋上で、大津波を目撃しました。カメラのファインダー越しに迫る濁流は、想像を遙かに上回るものでした。あの日から、防災は生涯のテーマになったのです。生きたくても生きられなかった人の分も、がんばって生きていかなければならない。二度と同じ悲劇を繰り返してはならない。その思いだけで、立ち止まらずに取材活動を続けましたが、ずっと心に引っかかることがありました。
 震災前、私は政府や県、市、学者の発表する被害想定などを、ほとんど検証せずに紹介していました。当時の私には、津波シミュレーションも被害想定も疑う余地がなかったのです。ところが、実際の津波は「想定外」でした。気仙沼市の市街地の津波想定は、「最大で2m」でしたが、高さ10mもの津波が人々の命を奪ったのです。発表を検証するためには、知識が必要です。そんなときに、インターネットで「防災士」を知りました。勉強ができるだけでなく、資格も取れるということで受講を決めましたが、その講師陣の顔ぶれには本当に驚きました。

今後の課題・抱負をお聞かせください

 資格取得後、さっそく近くの小・中学校に行って防災教育への協力を申し出ました。まだ、具体的な活動にはつながっていませんが、我が家の3人の子供たちがこれから小学校へ入れば、PTAとしても積極的に活動しようと思っています。取材相手に「防災士です」と明かしたことはありませんが、さらに知識を高め、防災・減災のために新聞にできることを実践していくつもりです。
 震災で、私は母親(当時63歳)を失いました。1年4カ月が過ぎても、まだ行方不明のままです。母は近所の寝たきりの老夫婦を助けに行き、その家ごと津波にのまれたようです。命は失いましたが、人と人が助け合う精神は失いませんでした。その遺志を私は受け継ぎたいと思っています。
 気仙沼市は震災後、国内外から多くの支援を受けて復旧・復興に向かって進んでいます。そうした支援に対し、私にできる恩返しは、震災の教訓を伝え、次の災害への備えに生かしてもらうことだと思っています。震災を経験し、被災した人たちの体験を取材し、たくさんの問題点が分かりました。一番伝えたいことは、「災害への対策は、命を守ること」です。家も仕事も生きてさえいれば何とかなりますが、命だけはどうしようもありません。私たちはそのことをもっと真剣に考えておくべきでした。震災時・震災後は混乱しますので、震災前にできていなかったことはできません。震災前からの備えこそが大切なのです。
 被災地の情報・教訓の提供、人材紹介など、協力できることがあれば、できる限り協力します。どうか、それぞれの地域で、大切な人の命を守る取り組みを広げて下さい。

防災士について
防災士インタビュー