防災士インタビュー

若林正治さん

お仕事の内容をお聞かせください

社会福祉法人 日野市社会福祉協議会で、総務と事業ボランティアを兼務しています。市内で災害が発生した場合には、災害ボランティアセンターを立ち上げるということもあり、市内在住者としては「いの一番」に駆けつけなければと考えています。

自身が被災された経験がもしあればお聞かせいただければと思います

飯田橋での会議の最中に東日本大震災に見舞われました。非常階段でビルの10階から降りましたが、降りるにつれて各階からの退去者が増え続け、1階までなかなか進んでいかず、長周期の揺れの中、らせん状に階段を降りることで、平衡感覚がおかしくなりました。地上まで降りついたものの、今度はガラスや壁の崩落の恐怖を感じました。夜間の避難が危険であることは承知していましたが、「まだ午後3時頃であった」、「停電していなかった」、「日曜日にイベントがある」、これらのことが私にとって「敗因」となりました。幹線道路をひたすら歩き、電車の復旧の情報も得られず、歩行中に大渋滞の車から発生する排気ガスを吸って吐き気を催しながら、電車で1時間のところを11時間がかりでの帰宅となってしまいました。

なぜ防災士の資格を取得しようと思われましたか?

歩いて帰らなくてはと、都心を抜け出そうとしていた時に、私立小学校の生徒がコンビニのそばで座り込んでいるのを見かけました。私立の場合は学区域もありませんし、どうやってどこまで帰るのだろう…。気にはなったものの声をかける余裕がその時の私には無く、苦い記憶として残ることになりました。災害弱者、殊にこれからの日本を支えてくれる子供たちを見て見ぬふりをしてしまった、情けなかったです。携帯も繋がらず情報が入手できない災害時に何を優先すべきか、現場で陣頭指揮するに当たり、"単なるお節介なオッサン"ではダメだと思い、学び直そうと思ったからです。

防災士の資格を得たことを、どのように職務や地域での活動に役立てようとされていますか

東日本大震災の発災後、4月初頭に石巻の門脇中学校の避難所での支援、5月にいわき市での緊急貸付、8月には気仙沼大島で市民ボラと一緒に片付け作業、陸前高田の仮設住宅の自治会長さんや避難所運営に尽力されたホテルマンとの"呑みニケーション"で報道されていない現地の実態を伺えたこと等の経験をしてきました。現場に行ったことで、被災者ではないから行えることが見えてきました。また、現地の方からきいた「海は悪くない、俺らと同じ失敗をしないで欲しい」という声を伝えなければと思います。

現在、実際に取り組まれていることがありましたらご紹介ください

被災地では、一時的な支援だけでなく、風化させないように継続的な寄り添いとして、時には現地で一緒に酒を呑んだり、特産品や自主生産品などを購入したりといった、地元の方々が震災以前の生活を少しでも取り戻せるように経済的な支援活動等をしています。地元では、各方面からご参加を頂いて、災害時ボランティアセンタープロジェクト委員会を立ち上げ、災害時マニュアルを完成させました。現在では同じメンバーで防災プロジェクトを引き続き検討しています。また、被災地応援販売会のお手伝いや、学校等を会場とした地域のイベントで、親子で遊びながら身に付く防災講座を展開し、一人でも多くの方が要援助者ではなく、支援者・協力者になってもらいたいと願っています。

今後の課題、抱負をお聞かせください

社会福祉協議会が災害時ボランティアセンターを立ち上げますが、少ない職員がすべての被災者のニーズに応えることは不可能です。また、他の地区から来られるボランティアの方を被災者のニーズとマッチングさせることについても手が足りないことが明白です。防災意識の高い住民の方の協力がどうしても必要です。早期に普段通りの生活に戻るために、イベントなどで実践・訓練を続け、災害に関する知識だけではなく、災害がいつ来ても常に対応できる人材を育成していきたいと思います。"肥後守"で道具を作り食べられるものを確保する、子供たちに刃物が危険だからと遠ざけるだけでなく、適切な使い方を指導して、そこに防災の知識を織り込んで、生き残れる術を伝授していきたいと思います。

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